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「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の丸太に気づかないのか」(3節)。丸太が目の中に入るはずはないから、これは主イエスのユーモアである。私たちは他人の間違いや欠点はよく見える。しかし、私たちが他人の中に見る罪に比べたら、神の前に知られている自分の罪のほうがはるかに大きいことを、主はこのように表現した。神の前に、私たちの隠れた罪は大きい。それなのに人を裁くのは、私たちが神の前に生きていないからである。
主イエスは「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」(ヨハネ12:47)と言った。もし主が裁くために来たとしたら、私たちの隠れた罪は白日(はくじつ)の下(もと)にさらされて、神に裁かれるほかはない。しかし、主イエスが十字架の翼の陰に私たちの罪を覆ってくださったので、私たちは神の怒りから救われ、神の前に出ることができる。
主イエスを信じて罪を覆われた私たちは、もはや神の裁きを恐れない。神の前に立つ終わりの日は、私たちにとって裁きの日ではなく、神の国を受け継ぐ救いの日である。神の前に生きる幸いを得た私たちに対して、主イエスは「人を裁くな」と言う。人を裁くのは神である。「相手のために」と思う裁きは、交わりを破壊する。人を裁かず、むしろ人の重荷を負い合うところに、キリストの体である教会は建て上げられてゆく。